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災害鍼灸マッサージプロジェクトの目的

詳細は以下の記事をごらんください。
http://890iwanuma.blog.so-net.ne.jp/2011-04-26-00

活動終了に関して

災プロでは、2011年12月6日をもちまして被災地へのボランティアの派遣を終了いたしました。多くのみなさまのご支援、ご協力、誠にありがとうございました。

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【活動報告:南三陸町】8月31日~9月2日 [参加者からの感想]

伊藤 政彦

8月31日~9月2日の日程で災害鍼灸マッサージプロジェクトの支援を受け宮城県南三陸にはりきゅう治療のボランティアに行かせていただきました。

活動一週間前からコーディネーターと仙台入りの手順から宿やタイムスケジュールを打合せに入る。
レンタカーの返す時間・ホテルの予約などすべてコーディネネーターの方と仙台入りの時間・帰りの時間・レンタカーの手配(荷物が積める物やナビが付いている物)細かく話を進めて決めていきました。

東北新幹線8:56分東京発~11時前後仙台入り
仙台駅は屋根などは少し倒壊しているものの街自体は特に地震で被災した様子はあまり見られなかった。
12時駅でレンタカーを借り一路南三陸へ。
昼食を途中で食べ他の先生が活動している避難所涌谷町に行き先生と合流する13:45分。ココは石巻の丁度上の方になる。先生や治療機材を乗せ南三陸町へ。
途中被災現場を目の当たりにする。とても心が痛んだ。地元に戻った時皆さんに現状を知らせるためしばし活動記録写真を撮った。
途中女の子が最後までアナウンスし続けた市の中心にある防災対策庁舎がありました。今では南三陸のシンボルとなりつつあり大きな献花台も設けてありました。

16時過ぎ南三陸町高台にあるベイサイドアリーナへ到着。ここは今は南三陸町の拠点となっている。テニスコートに市役所・警察・消防(病院)がここに集結している。
ボランティア総合受け入れ(災害ボランティアセンター)もここにありました。
17時ベットや治療スペースを作り治療開始。被災した市の職員さんを治療させて頂く。
市の職員中には家族を失ってしかも、ほぼ無休で働いている方や、一緒に働いていた同僚が流され亡くなった人も多い。
治療している途中で予震みたいなものがあった。とても敏感に反応しているのが印象的だった。
19時半片付け20時撤収。21時前宿南三陸ホテル観洋に到着チェックイン、ミーテング&食事~解散
この日は、テレビには見ていたけどこれが本当の現実なんだと改めて痛感。現地の人の怒りや悲しみは当分忘れることは 無いだろうと思う。治療人数約10人前後 術者2名

9月1日
8:30分宿から車で40分の所にある避難所だった所、公民館で治療させて頂く。この日も強い雨が止まない。
ベットや治療スペースを作り10時治療開始お年寄りの方々がぼちぼちと集まって下さる。12:15分食事はコンビニおにぎり13時午後の治療開始。16時撤収。
ココでは、ほのぼのとした中、田舎の暖かいお婆ちゃん方を治療させて頂いた。治療した後もすぐに帰るとかではなく、周りの皆さんと談話したり私たちに話しかけて下さったり周りの気遣いもさせており地域の雰囲気も良くとても印象的な公民館だった。術者2名

南三陸町ベイサイドアリーナへ
17時ベットや治療スペースを作り治療開始被災した市の職員さんを治療させて頂く。
19時半片付け20時撤収。21時前宿に到着、ミーテング&食事~解散
職員さんで休日もなく働き続け、しかも食べる物も毎日ボンカレー等を食べ続けていると言っている方もいた。治療人数20人前後 術者5名

9月2日
9時ホテルチェックアウト~
この日は雨がすごく道自体も水たまりや陥没している所もあり車が思うように進めなかった。
ようやく10時到着波伝谷仮設住宅にてベットや治療スペースを作り治療開始。ここはアリが多く発生している。12:30食事コンビニおにぎり。13:15分治療開始16:20分治療終了離脱。
ココの仮設住宅は山奥にあり足場も悪く夜は出歩けそうもない感じでした。車が運転できないと山下にもいけない。お年寄りはどうするのか?
治療最後の撤収時間ぎりぎりきた患者さん40代女性で、すごいストレスを持った感じの方だった。この患者さんは午前中一人目の患者さんでした。20分のマッサージの治療で症状が少し改善したもののとりきれてない様子。こちらとしてもまた来てほしいと思っていた。鍼は前回の強刺激のだったのか否定的で二回目は何とか置き針と温灸をさせてもらえた。治療後強張っていた表情が一変笑顔に変わった。何度も又何時来るの?又必ず来てね! と念を押された40代女性。治療人数20人前後 術者2名

治療終え一路仙台へ20時仙台へ到着、車の走行距離366㌔東北新幹線20:45分~22:30分東京駅自宅に23時到着

現地のニーズとして:被災地に治療に当たる場合マッサージでも主訴が取れないと難しい。マッサージを希望する人が多い。鍼灸をやってほしい人は少ない。強刺激はNG。お灸はできない場所がある。治療時間は15~20分。治療途中虫が来るので蜂や虫が苦手な術者は向かない。

短く早い3日間であったが被災地の地元の方々の気持ちをわずかではあるが共感できた。この気持ちを胸に東京でも今まで通り続けて支援をして行きたい。



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【PCAT活動報告:石巻】7月23日~25日 [参加者からの感想]

喜多伸治

任地は石巻の要介護者の避難所でした。朝9時半発の飛行機で仙台まで行き、そこからレンタカーを利用して13時半には現地に到着しました。
同じ大阪府鍼灸師会のもう一つのチームは、石巻で私達2名を降ろしてそのままさらに1時間ほど北上し、南三陸町まで行きました。(南三陸では27時間テレビが来ていて、イベント中は患者さんが全く集まらなかったらしいです(^^;))

任地では土日月の3日間、大阪からの私達2名と茨城県から1名鍼灸師が、引受先のPCAT(日本プライマリ・ケア連合学会 東日本大震災支援プロジェクト)の皆さんと行動。宿泊所が一緒で色々とお話をさせていただき、施術もして鍼灸に興味持ってもらえた(約一名)ようです。
要介護者の避難所ということで特殊になると思いますが、避難者の施術はせず看護師や介護者、ボランティア等のスタッフの施術のみでした。ただ、スタッフ自身も大なり小なり被災者で、詳しい話は聞けませんがやはり色々あるようです。
3日間3名でのべ90数名とよく働きました。石巻では鍼があまり盛んではないようで、初めての方も多く施術しましたので、鍼の普及啓蒙にも役だったと思います。(たぶん)

25日深夜3時51分に震度5弱の地震があり、さすがに目は覚めるものですね、私含め皆さん起きて少しごそごそしていましたが、何事も起こらないのでそのまま寝ました。
携帯に「エリアメール」として、地震速報が入ってきます。こんな機能有るの知りませんでしたが期間中2回入ってきて、事後確認であってもちゃんと誰かが把握してくれているという安心感がありました。携帯のワンセグテレビやラジオも便利だということです。私もワンセグ観ようとしましたが大阪のチャンネルになっていて、寝ぼけながら設定しようとしましたが出来なくて諦めました(T_T)。

2011/7/23
0710 自宅出発!
0840 伊丹集合 空港でエタノール取り上げられる。(医薬品との記載があるボトルならOKとのこと)
0930 伊丹発JAL 飛行機小さく若干怖い
1045 仙台着 日産レンタカー 高速は道が波打っているところもあり、時々ジャンプ。
1330 任地石巻「遊楽館」着。周囲は被害をうかがえないのどかなところ。早速施術。
1720 施術終了。PCATのシャピロさんと茨城の鍼灸師、藤田さんに乗せてもらい涌谷町の宿舎へ。
食事は近所の店で。風呂は完備され、PCATは夜9時から利用できる。就寝は11時過ぎ。

2011/7/24
0700 起床。朝食はその辺にある物を好きに食べてくださいとのこと。
0750 簡単なミーティング
0800 出発
0830 遊楽館着
0840 夜勤明けの人から治療開始。昼食は弁当。この日はピザとお握りでした。
1720 治療終了。石巻沿岸部へ鍼灸師3名で行く。
2030 夕食済ませて宿舎着。風呂に入って、鍼に興味を持ってもらった医師とビールを飲みながら話する。
2400 就寝

2011/7/25
0351 地震 震度5弱
0700 起床、朝食、ミーティング
0840 治療開始
1340 治療終了。弁当食べて、片付けしていると南三陸チームが迎えに来てくれたので、大あわてで出発。
1730 仙台発ANA 仙台空港が本日新規開店、というか、定期便の復活だそうです。きれいになってました。
0920 伊丹空港で軽く打ち上げして、自宅着。


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【活動報告:南三陸町】7月7日~9日 [参加者からの感想]

猪上竜剣

 私が2回南三陸町で支援活動しました。1回目はすでに報告したので、2回目の7月7日から7月9日の活動報告と感想を記します。

活動記録者
  猪上 竜剣
活動日
  平成23年7月7日から7月9日
活動主催団体名
  南三陸町ボランティアセンター
仲介活動団体名
  災害鍼灸マッサージプロジェクト
活動場所 延べ(日数・人数)
  南三陸町ベイサイドアリーナ(以下ベイサイドアリーナに省略)
       2日 患者12人 施術者7人 事務員2人
  避難所 歌津中学校
       1日 患者12人 施術者3人 事務員1人
       志津川自然の家
       1日 患者17人 施術者4人 事務員1人
       滝浜生活センター
       1日 患者 5人 施術者1人 事務員1人
活動日程
<7/7(木)>
11:00 自宅出発
18:00 南三陸町ベイサイドアリーナ着後、鍼灸マッサージ施術
20:00 治療終了 患者6人 施術者4人(猪上含む) 事務員1名
20:30 会場を片付け終了
21:00 宿泊「ホテル観洋」着
22:00 災害鍼灸プロジェクトに活動報告、現地スタッフと明日の予定のミーティング
23:00 就寝

<7/8(金)>
10:00 ホテル内でミーティング
10:30 被災地視察。「平成の森」へ、予定日と近所の仮設住宅へ広報依頼確認
      昼食
11:00 歌津中学校到着、設営
12:00~15:00 治療 患者12人 施術者3人(猪上含む) 事務員1人 気温30度
16:00 歌津中学校出発
16:45 ベイサイドアリーナ到着 設営
17:30 治療 施術者2人(猪上含む)事務員1名
18:00 施術者1人到着
20:00 治療終了 最終人数患者6人 施術者3人(猪上含む) 事務1人
21:15 宿泊ホテル観洋到着 夕食後に活動予定のミーティング(新たな避難所への対応のため)
23:00 就寝

<7/9(土)>
8:30 ホテル観洋出発
9:30 志津川自然の家(初めての避難所)到着 設営
10:00 治療 患者17人 施術者4人 事務員1人 気温34度
14:10 治療終了
14:30 滝浜生活センター(初めての避難所)到着 設営
15:00~20:00治療
      (ただし、猪上は1時間のみ)
16:00 治療終了(猪上のみ) ここまでの患者4人 施術者4人 事務員1人
23:00 帰宅



 印象に残った被災地の状況と感想を記す。

<ガソリンスタンド>
 被災場所の南三陸町には、ガソリンスタンドが3件営業している。下記の写真のとおり被害を受けて、店舗が倒壊している。なぜ危険物を扱っているのにこの状況で営業できるのか、疑問ではある。しかし、完全に建て直しを待っている状況ではない。なぜなら、重機車両が給油できないと撤去作業の遅れることになる。また、運搬車や乗用車も給油できないと物資が届かず、被災者の生活に支障きたすことになる。

車中よりガソリンスタンド.JPG
ガソリンスタンド.JPG
ガソリンスタンド

<コンビニストアー>
 コンビニストアー(コンビニと以下省略)は3件あるうち、1件のみが24時間営業が可能である。あとは、仮設で7時から18時までとトラックを利用した店舗(トラック式コンビニと以下省略)が、10時から14時である。
 このトラック式コンビニは、地元の人の経営者ではないらしい(店長が詳しく話すことを拒まれたから)。すこしでも被災者を助けたいと思いからである。
 店内で買い物したが、値段は特別に高くはなかったので、運賃を含まれてないと考えられる。また、トラック式コンビニの隣に1台の車があり、警備員が横にいる。これは、ATM用車両である。
 被災地のいる人たちに通常のようなサービスを提供しようと店長の工夫が伺える。

コンビニ営業中.JPG
ATM.JPG
上はコンビニ 下はATM

<食堂>
 下記の写真は、私達が昼食を取った店である。この店の特徴は、商品の値段はお客さんが決めて募金箱にいれることである。つまり、売り上げを募金するための支援活動である。
 以前、震災直後に炊き出しに使用していた。そして、この食堂に引き継がれた。

ごはん1.JPG
ごはん2.JPG
ボランティア食堂

<避難所>
 避難所ではエアコンがないため、激しい暑さであった。私が施術しているとき、汗が止まらず困ってしまった。それは患者様に汗をかからないよう注意しなければならない。下記の写真は、避難所の1つ歌津中学校の体育館である。ここで被災者が生活をしている。荷物で仕切り各戸としている。一瞥だが一戸は六畳から八畳位の広さだと思う。この状態だとプライバシーはない。
 体育館は2階であり、1階は家庭科室や理科室などの実習室だと思うがはっきりしない。なぜなら、物資が積まれブルーシートが敷いてありよく分からない状況である。ここで支援者の方が物資の仕分けや床屋などを行なっていた。この日はハローワークの業務を行なっていた。
 避難所の施術は被災者と支援者を対象としている。歌津中学校での支援者に施術を行なうとき、他のメンバーに呼び出されることが多い。支援者はゆっくりと治療を受ける時間がなかった。

治療風景.JPG歌津中学校の体育館

 今回は新たに避難所で施術することになった「滝浜生活センター」と「志津川自然の家」である。
「滝浜生活センター」は被災者が住んでいないが、周辺の仮設住宅に住んでいる人のために施術場所として、滝浜村の人たちが提供してくださったところである。仮設に住んでいて私達の施術を希望している。
「志津川自然の家」は、エアコンが無いため暑い上、ハエが多く衛生的に良くない。

<南三陸町役場とボランティアセンター>
 ベイサイドアリーナはスポーツ施設であるが、今は私達の施術所としている。周りには仮役場と南三陸ボランティアセンターがあるので、主に役場職員とボランィアセンターのスタッフに治療をする。
 特に職員らの健康維持と状況把握のために、役場は私たちに依頼をしたのである。よって、私達はカルテのコピーを提出して、職員らのプライバシーを守るためカルテ管理に細心の注意を払った。また、他県から支援を目的としている派遣職員(神戸市職員など阪神・淡路大震災を活かして来ている)も南三陸町役場が健康管理を行なっている。
 職員らは、私達の治療を受けることを楽しみにしているようだった。なぜなら、毎日通われている方がいること、評判を聞いて初診者が増えたこと、施術所準備から予約する方が多いことである。しかし、急な仕事で予約をキャンセルすることもあった。
 忙しさは夜遅く続いている。そのなかで、私達の担当の総務課職員は21時過ぎても仕事をしていた。
保健福祉課.JPG仮役場

ボラセンてんと.JPG
ボランティアセンター

<宿泊施設>
 私達が宿泊した「ホテル観洋」は、他のボランテァ団体、警察官などが利用していた。また、被災者も生活していた。被災者には名札が付いて証明書にしていた。
 宿泊者のなかで目立つのは、NTT関連会社が大広間で借り切っていた。布団が多く敷かれて、入り口付近にパソコンが並んでいた。夜中でもパソコンが起動していて、寝る環境ではないようだ。

NTT.JPG
大広間にNNT関連会社

<小河原先生との再会>
 私がこのプロジェクトに参加した切掛けをつくって下さった小河原信雄さん(小河原先生と以下省略)の偶然の再会であった。小河原先生は、プロジェクトの現地リーダーと東京本部の連絡係をしていた。
 私はこの大震災のために何か支援できないかと思案していた。その時ボランティア活動している友人から「災害鍼灸マッサージプロジェクト」の存在を教えてくれた。
 早速、プロジェクトに問い合わせたら、小河原先生から連絡をくださった。私は久しぶりの小河原先生の連絡に驚いたので、当初の連絡の内容が耳に入らなかった。「名簿を見て猪上 竜剣という名前はひとりしかいないでしょう!」の言葉にボランティア活動の依頼だと理解した。
 小河原先生とは鍼灸の同門で級友であった。途中で私は退会して、長い間先生と会うことはなかった。また、今は先生と異なる鍼灸の流派に所属している私に、小河原先生は「是非、参加してください。」と力強い言葉で誘ってくださった。その言葉で私は期待に応えたいと決意した。
 小河原先生との再会は、7月7日 18時に南三陸町ベイサイドアリーナである。私は南三陸町入りに二回目である。一回目とき、先生は東京で後方支援だったので、会うことはなかった。
 そして、久しぶりの再会の言葉は、「あ、猪上先生、久しぶりです。では治療をお願いします。」と淡々したものだった。そこが、小河原先生らしく昔から変わっていないなぁと私は安堵した。それに、患者様が待っているので、懐かしんでいる場合ではなかった。すぐに先生に言われるとおり治療をはじめた。
<感謝したいコーディネーター橘川さん>
 橘川さんは手際良かった。私は順調に施術ができたのは橘川さんお陰である。患者様の初診が多く、しかもそのほとんどが鍼灸治療希望であった。怖いイメージを持つ鍼灸治療を、橘川さんが見事な問診によって患者様を安心させたからである。また、避難所の巡回時間、避難所の確保、ボランティアセンターの交渉なども素晴らしいコーディネートだった。

集合写真.JPG
ホテル観洋にて

最後に
 この時、被災地の傷跡は激しかった。先ずは瓦礫撤去作業が優先であると思った。しかし、大震災から長い時間が経ったので、支援者の数が減少傾向になった。そのため撤去作業は進まず、長期化しそうである。この夏休みにどれだけ支援者が見込まれるが期待している。
 災害鍼灸マッサージ師プロジェクトも同様、鍼灸マッサージ師の確保が難しい。その上、活動範囲が拡がりつつある。この課題には頭を痛めている。
 しかし、災害鍼灸マッサージ師プロジェクトは、各流派を超えて鍼灸マッサージ師を参加させる大きな許容がある。鍼灸マッサージ師達は献身的性格の持主であるので、支援活動に賛同することを続くであろう。
 このプロジェクトの特徴が、地元の鍼灸マッサージ師・柔整師の復興支援である。この大震災で経済的、精神的に打撃をうけて廃業していた先生の施術所を復活させた。その功績は大きい。地元の施術者達が引きついでいれば、このプロジェクトの支援活動は絶えることはないと期待している。

以上











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【PCAT活動報告:石巻】7月29日~7月30日 [参加者からの感想]

海老根 妙子

今回私は、練馬区鍼灸師会の方々とともに活動に参加しました。当初は宮城県の南三陸町での活動予定でしたが、最終的には、練馬区鍼灸師会からの5名のうち、1名は南三陸、4名は石巻での活動となりました。
石巻は、要介護者の避難所である遊楽館で、そこの医学的管理をしている「日本プライマリ・ケア連合学会 東日本大震災支援プロジェクト(PCAT)」の一員として、医療スタッフのケアを担当しました。
全ての指示はPCATスタッフから受け、宿泊もPCAT宿舎でした。活動場所の遊学館は避難所ではありますが、介護施設的な所なためか、高台にあり、空調その他設備は整い、被災地に来ている感覚は全くない所でした。施術場所も、専用の部屋を与えられ、ベッドやマットレス、バスタオルなども借り、基本的に一人20分の予約制で灸以外の方法での治療をするというものでした。
PCATでの活動の特徴は、被災者にはかかわらず施術相手は避難所で働くスタッフであること、現地までの交通費補助があること、宿泊はPCAT宿舎で、活動中の食事も用意されることでしょうか。 あまりに恵まれたボランティア環境に違和感すら覚え、同じ時の南三陸での活動との違いを知り、愕然としました。
鍼灸災害マッサージプロジェクトを通じて多くの方が被災地で活動しています。今回行って話を聞くなかで、現地でのケアは継続が大切だと痛感しました。交通費や宿泊費などは、HPにもあるように基本的には自己負担です。今回私たちはとても恵まれた条件での活動となりましたが、これから数年単位で活動を継続し、できるだけ多くの人がかかわれるようにするには、やはり活動費用等の自己負担軽減が大切と感じました。
たとえば、補助のでる活動の場合でも、その清算は派遣元のプロジェクトが一括管理し、活動者全員に一定の割合で割り振る、鍼灸や按摩マッサージ指圧の会がプロジェクトに対して活動援助金を出す、学生は運転や補助でかかわれるようにするなどです。
また、避難所のスタッフのケアは、長期滞在が難しい我々にも活動しやすく現地でも受け入れられやすい分野です。 実際に治療のできない学生にも補助的仕事はたくさんあると思います。常に3名程度のチームを作り、多くの人が少しずつ、今の自分にできることをやっていけるような、無理なく参加でき、継続性のある活動にしていかなければならないと感じました。
そのためにも、個人の善意に任せるだけでなく、業界が団結して、情報を一括管理できるような組織をつくることが大切ではないかと感じました。今回も、2つの団体にかかわっていたため、直前の現地にも正確な情報が伝わっていませんでした。現地に赴くことも大切ですが、事務局の性格で迅速な情報がどれほど重要か。自分のできることのひとつとして考えていかなければならないと思いました。
とても短い時間でしたが、災害鍼灸マッサージプロジェクトの方々をはじめPCATの方々には大変お世話になりました。ありがとうございました。

--

*後方より
⇒宿泊費や交通費などの活動費用について、当プロジェクトでは補助を捻出する目的で、募金の呼びかけや助成金の申請を行って参りました。
そのため、当初より、宿泊費、交通費の領収書の保管をHP上でお願いしております。
現在は、HPにも掲載しましたように、活動開始以降の全ての参加者へ交通費、宿泊費の全額補助が可能となっておりますので、ご確認ください。
また、継続の重要性を感じられたとのことで、ぜひとも現地への再参加、また後方支援への参加をお願い致します。


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【活動報告】5月15日~16日 [参加者からの感想]

佐合基樹

私が災害鍼灸マッサージプロジェクトに登録を申し込んだのは4月末のことでした。
仙台からほど近い岩沼、名取地区での活動を内心希望しておりましたが、活動予定の5月15日までに撤退をされ、災プロ事務所の方から、日本プライマリケア連合会への登録を勧められ、気仙沼で2日間の活動に従事してまいりました。

被災地の方々は生活環境が満足できるレベルにあるわけではないですが、少し落ち着いた雰囲気と諦めに似た感情が感じられ、日々ボランティアが入れ替わり立ち替わり出入りしているので、また違った人がいらしたのかな?といったぐらいの反応を感じました。
とはいえ名前、出身、鍼灸師であることを出来る限り笑顔で(ひきつっていたかもしれませんが)挨拶して回りました。

初めての被災地ボランティア活動において各種注意事項や心がけ等が記された記事などに一通り目を通し、現地に向かったのですが、自分にできることに特別なことはなく、出来ることしかできません。日常の仕事と変わることなく頑張ろうと活動しました。
あえて気をつけたことは、鍼灸師としてできることを伝え、治療行為をしなくとも体調のこと以外でもなんでも話を聞くこと。
施術記録をなるべく詳細に記し後任の先生方にバトンを渡すこと。
この2点でした。

被災地の方々にとって必ずしも満足する施術とはいえなかったかもしれません。
わずか2日で何が出来、何を感じることができたのかと活動を終えてから考えても充実感にはほど遠く、ただ目の前のことをこなしただけで期間の短さに反省さえ覚えました。
しかし、多くの先生方がその後も継続して活動され、その地の先生方に引きつがれていく手伝いが少しでも出来たと思い被災地を離れました。

この2日間は後から考えれば軽い興奮状態でした。睡眠は浅く疲労感は少なく、やる気だけが先行していました。帰宅後に日常生活や業務に差し支えるような心身の疲労が出てきたわけではないですが、わずかな日程でもそれなりのマイナスな反応が出ました。長期にわたる活動をされる先生方はそれ以上のことでしょう。離任後のケアは必ず想定しておいたほうがよいのではと思います。

理想主義と笑われると思いますが、被災地での鍼灸マッサージには、ある程度の方法論が必要なのではないかとうっすらと感じました。どうしても先生方の技術差が生じ、患者となった方々に一定の効果が得られないことが時にはあるかと思います。その効果の平均ラインを保ちつつ、上乗せはそれぞれの先生方の技術で補う形が取れれば一層よいのではないかと感じました。なかなか難しいことではありますが。

それ以上に、このような状況では少しでも寄り添い、話を聞き、触れることなどでのトータルな癒しが最も大切で、その先に治療技術があるものであろうと思います。

私は個人院で一人で仕事をしています。
休んで活動することにはためらった部分もありますが(正直にいえば費用、売上です) 、恰好つければ患者様のために休めない!なのですが、皆さんは口々に
「御苦労さま」 「私の代わりにいってきてください」
などと非常に好意的に受け取ってくださいました。そんな意味では一時的なマイナスなど全く気にならないどころかプラスに転ずるような活動であると思います。

迷われておられる先生方、是非そのお力を存分に発揮できる場所へと一度体を運んでください。後悔することは微塵もないはずです。

最後になりましたが被災された方々へお悔やみとお見舞いを申し上げ、一刻も早い復興を心よりお祈り申し上げます。



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【PCAT活動記録:石巻】7月29日~7月30日 [参加者からの感想]

藤井伸康

当初、28日の夜11時頃、仙台行きの深夜バス新宿を出発して仙台からはレンタカーで勇んで現地までカーナビ頼りの道中というわけでしたが、正直、土地勘もなくたいへん不安でした。
しかし、直前に震災鍼灸マッサージプロジェクトの担当の方からお電話があり、29日の盛岡行き始発の新幹線で仙台までいらっしゃるようとご連絡がありました。
そのとおりに仙台まで着くとPCATの方が改札口におられ、車で送っていただけたのでホッとしました。
活動時間 29日:11時~17時 鍼灸師2名 23名施術
活動時間 30日:8時30分~16時 鍼灸師4名 31名施術

施術を受けられる方は医療関係の看護師の方が多いのでだいぶ疲れているご様子でした。
また、マッサージや電気治療はやったことがあるがここへ来て鍼は初めての方が以外に多いようでした。
鍼が初めての方は、鍼=こわい?といった先入観をお持ちの方が多い中、我々より一足先に遊楽館で施術をしてくださった災プロの鍼灸師の先生方が怖い先入観を取り除いていただいたお陰で私たちは、楽に施術をおこなうことができました。

これからも復興の日まで、鍼灸施術のリレーを絶やすことなく続けていけたらと思います。


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【活動報告:南三陸町】6月30日~7月2日 [参加者からの感想]

朽名宗観

●はじめに
 宮城県南三陸町で6月30日から7月2日までの間、災害鍼灸マッサージプロッジェクトのよびかけに応じてボランティア活動に参加しました。
 南三陸町は志津川と歌津とが合併してできた町ですが、どちらの地域も町の中心部は津波によって壊滅的な状況となりました。震災直後、海岸から四百メートルしか離れていない志津川病院の屋上からヘリコプターで入院患者が救助される映像や、防災対策庁舎から若い女性職員が津波警報のアナウンスを最期まで続けて自らは命を落としたことなどは、ニュースで度々報じられたので周知のことと思います。
 活動期間中、東京からの鍼灸マッサージ師が私を含めて2名、現地の治療家1名が、避難所となっている民宿、合宿施設、一般の民家、町役場仮庁舎の会議室、アリーナ(体育館)のトレーニング室を会場に借りて、1日に合計で12〜26名程の治療に当たりました。治療に来られたのは、主に避難所にいる被災者と町役場の職員です。
 以下に活動中に経験および見聞したことについて記します。

●避難所の民宿・泊崎荘での活動
 最初のボランティア活動の場、歌津地区の岬にある民宿・泊崎荘に到着すると、宿のマイクを使ってボランティアの鍼灸マッサージを行うアナウンスをします。避難している方たちが、間もなく治療室にあつらえた広間に集まり、治療をはじめました。
 主訴に肩凝りや腰痛が多いのは予想されたことですが、仮設住宅に入る人も増え、次第に避難所の住環境も底上げされているようで、床に毛布を敷いて生活するような場所から、畳や布団があり、質の高い食事の出る民宿やホテルに移り、震災直後の過酷な状態からは脱しつつあるようでした。患者さんの一人から、「前の避難所はたいへんだった、それに比べるとここは天国ですよ」という声を聞きました。
 震災によって生じたさまざまな愁訴と同時に、震災前からあった慢性的な持病による不調を訴える方もいます。しかし、地元の治療院は被災してまだ再開しているところが少なく、「からだの痛いところや調子の悪いところを治してくれる人たちに来てもらえるのが何よりだよね」と言われました。このように治療活動の隙き間を埋めることは、われわれがボランティアとして働く意味のひとつと言えるでしょう。
 鍼灸になれている人はむしろ少なく、鍼灸を普段経験したことのない人にはマッサージから入り、接触鍼や少し刺入する程度の鍼治療にうつってゆくという方法をとり、鍼に対する警戒心を取り除きながら治療しました。鍼は絶対にダメ、マッサージが良いという方には、鍼は無理に薦めません。
 御主人のお母さんを震災で亡くしたという中年の女性が治療の合間に、まだ遺体が見つからず、3ヶ月たったのでもう死亡届は出せるけれども、御主人はまだその死を受け止められないようで、「もうすぐお盆だけど、うちは今年はやらないつもりだ」ともらしていました。

●各地から集まる役場職員を施術
 夕方5時過ぎからは6月30日から7月2日まで連日、町役場の職員を主な対象とした施術を役場仮庁舎の会議室とベイサードアリーナ・トレーニング室を会場として行いました。部署によっては夜遅い時間まで灯のついている部屋がありますが、建設課はそのひとつで、治療に訪れるのも建設課の方の姿が多く見られました。
 職員の名札を見ると、地元の方たちばかりではなく、東京都や川崎市などから派遣されていることがわかり、役所の業務をこなすために各地から応援が集まって来ています(巡回しているパトカーのナンバープレートにしても、全国の地名が記されています)。そのため、震災直後のように庁舎そのものを失って、地元職員が喫緊の業務を多く抱え、徹夜が続くといった状況ではなくなりましたが、肩背の凝り、腰痛、膝痛などの愁訴のほかに、頭痛、不眠、花粉症などを訴える方もあります。瓦礫撤去などの労働を続けている消防隊員が施術会場に来ましたが、勤務あけの時間とこちらの施術時間が合わず、予約を見合わせることになったのは残念でした。
 この夕方の施術には、地元の柔道整復師であるA氏がボランティアとして加わりました。A氏は志津川で開業していましたが、治療院を失ったばかりでなく、奥さんを亡くしています。流されなかった工場の建物の一角を借りて、治療院をいちはやく再開しました。仮設住宅にいるとのことなので、住み心地を尋ねてみると、「良いですよ、けっこう広いですし。でもひとりなのは、さびしいですれども」という応えがあり、さらに「妻が生きていれば、二人でこの土地を出ることも考えたかもしれませんが、亡くしたのでここから離れられなくなりました」と笑顔をたもちながら話します。一見、明るく見える表情のかげに悲しみを秘めている方としばしば出会うことになるのが、被災地です。

●震災直後の様子を聞く
 2日目(7月1日)は歌津の港地区にある民家を借りて施術しました。この地区の世話役をつとめているHさんが、あらかじめ近隣に住む方たちにわれわれの来訪を告知し、予約の受付係をして下さったため、午前10時から午後3時までの間(途中1時間の休憩)に続々と集まる方々をスムースに施術することができました。
 患者の訴えることは、水汲みなどによる肩背や腰の筋疲労、震災後、1ヶ月して起こるようになった不眠・食欲不振・頭痛、無事だった自分の家に被災した親戚が避難して来て、食生活が変わって体重が6キロ程減った、職を失ってから感じはじめた頑固な首の凝り感など、からだの不調にしても震災をきっかけにした心因性と思われるものが多く、精神安定剤を服用している人もめずらしくありません。
 仏間を借りて施術にあたりましたが、80余才のお年寄り(女性)がその部屋に入って来ると、まず仏壇の上に掲げられているこの家の先代の遺影に合掌しながらお辞儀をされました。この方からは、主訴である肩凝りと腰痛の治療をしながら震災直後の生々しい様子を伺うことができました。
 家を流された人たちは公民館へ避難し、家が無事だったとしても水道・電気・ガスがすべて止まってしまい、「皆、眼の色が変わっていました」と言います。震災当日、長い間使っていなかった釜を出して米を薪で炊き、握り飯をつくって避難所に持ち込みましたが、次第に他の人も薪で米を炊くことを覚えたそうです。震災後の2ヶ月間は自治会長のリーダーシップのもと、避難者もそうでない人も毎朝、公民館に集まって会合を開き、「心をひとつにしてやってきました」とのことでした。
 船大工だったこの方の御主人は、停電で使えなくなった井戸の電動ポンプをはずして、つるべを造って水を汲み上げられるようにし、零下5度くらいまで下がった寒気の中、作りおいてあった竹炭を燃料にして暖をとったそうです。現在のように近代的なライフラインが整っていなかった時代を生きて来たお年寄りの経験が、力を発揮しました。また、この御主人は多くの漁船が流されたのを見て、長い間、やめていた船大工の仕事を復活させ、木製の和船造りをはじめたといいます。

●漁業再開に向けて
 午前の治療を終えた昼食時には、患者さんから自分の畑で作ったじゃがいも、いんげん、メロン、そしてこの地方独特の手作り菓子である〈がんつき〉の差し入れがあり、それを頂きました。今回の活動期間中、食事はコンビニのお握りが主だったため、土地の産物を手料理で口にすることができ、もっとも充実した食事だったと言えるでしょう。
 この地区は漁業と農業をかねている家が多く、長男のほとんどが家業をつぐ慣習がまだたもたれています。漁業の再開の可能性についてHさんに尋ねてみると、「もうはじまっていますよ。船を流された人は北海道に買い付けに行っていますし」ときっぱりとした口調で語られました。
 残った船が海で操業している姿は、われわれも見かけましたが、水揚げされた魚のうち、アイナメだけは買い手がつかなかったそうです。アイナメは海底に棲息しており、沈んだ遺体をつついているのでは?と懸念されたからですが、このようなこともいずれ払拭されるでしょう。7月入りしたこの日、志津川沖で名産品のミズタコ漁が、震災後初めて再開され、高値で取引されたというニュースも後で聞きました。
 ちょうどこのとき、NHKのテレビ番組が、北海道の沿岸にまで流されていた歌津の船が見つかり、持ち主が大型トラックで回収に来た姿を報じていました。私たちは話をやめ、自ずとテレビに眼を向けました。その持ち主はインタビューに応えて漁師としての船へのひとかたならない思いを告げていましたが、Hさんもよく知っている人で、「○○さん、北海道まで行ったんだねえ」とつぶやいていました。ここはニュースに登場する人が、身近な人であることがめずらしくないまさに「現場」なのです。
 カキやワカメなどの養殖業の再開への動きも、全国からの支援者を募り、収穫された産物を支援者に還元するというシステムを興すことなどで具体的にはじまっています。いろいろな難しい課題はあるでしょうが、「海を離れる」ことを考えるよりも、海の仕事を続けることに強い意欲を持っているように思われました。漁業はもとより人間がコントロールできない自然を相手にする仕事です。漁師はそのことを身にしみてわかっており、今度の津波は想定をはるかに越えるものだったとはいえ、たとえ思い通りにはならないことが起こったとしても、それを受け入れながらまた海に向かうといったことは、これまでもずっと繰り返して来たことなのでしょう。
 また、東北地方は縄文文化が栄えたことで知られていますが、南三陸町にも遺跡が残っており、古い神社と縄文時代の遺跡は、無事なところが多かったと聞いていたので、Hさんにその点について聞いてみました。すると、「そうです。でも、このあたりにあるお寺二軒は、どちらも流されました。そのうちの一軒は、住職が逃げる時にふりかえって見たら、本堂が土台から浮き上がってぐるぐる回転していたそうです」といいます。
 そして、それに続く話では、震災後にその住職が宗務本庁からどんな支援が必要かと聞かれたので、本堂の再建を要請したところ、フリ−メースンの寄付でプレハブの本堂がすみやかに再建されたとのことでした。フリーメースンは鳩山由紀夫前首相も関係していると言われる国際的な秘密結社で、鳩山氏が首相就任時に掲げたスローガン「友愛」はこの団体の信条だといわれています。私はこの地でまさかフリーメースンの名前を聞くことになるとは思ってもいませんでした。

●被災者の交流の場「平成の森」
 歌津地区に「平成の森」という大規模な宿泊施設やキャンプ場、および運動場や室内運動施設を備えた多目的施設がありますが、今では被災者の避難所となっており、仮設住宅も建設され、入居もすでに済んでいます。元来は地元の人たちが夏場には涼みに来るような高台にあり、環境的にも恵まれているところですが、仮設カフェがあり、炊き出しや音楽家などのボランティアも訪れ、被災者が情報交換や交流するひとつの拠点となっています。非日常の中の日常が営まれ、子供たちが駆け回って遊ぶ姿やコンサート会場から響いて来る音楽にどこか〈祭り〉に通じるような気配が感じられました。
 そこが鍼灸マッサージの施術会場となった日、ちょうど自衛隊員が引き上げるところに遭遇しました。見送りに出た大人にまざって、迷彩服のような服装をまとった少年の姿が見られました。おそらく彼にとっては、自衛隊員はあこがれの的であり、ヒーローにちがいありません。地元の人に震災直後からの多岐にわたる自衛隊の活動に厚い敬意と感謝の念が浸透していることはよく聞くところですが、その一端が垣間みられたシーンでした。
 ここでの施術にはこの施設に避難している方ばかりではなく、仮設住宅の方も訪れました。ある年配の女性の患者さんは、大津波を志津川病院のそばの冠婚葬祭式場の会館で経験したということで、主訴は下肢の痛みでした。津波がおさまってから町の瓦礫の中を避難所まで2時間ほど歩いて以来、痛みが消えないとのことです。自分の家が流されていることもすぐにわかり、一変してしまった町の惨状を目の当りにしながら、脚を運んだ時の心情は想像に余りあるものがあります。それから3ヶ月が過ぎ、外傷があるわけでもなく、今でも残るこの下肢の痛みには単なる筋疲労とは違った、精神的な要因があるように思われました。
 津波によるまさに「言語に絶する」ことが起こった町ですが、ガソリンスタンドの立て看板に大きく「津波のバカ」と書かれてあったのが印象に残っています。
 そのガソリンスタンドは(といっても南三陸町のどのガソリンスタンドもそうですが)、元のようにきちんと再建されているわけではなく、給油機が2台あるのみで、屋根も事務所の建物もなく、とりあえず給油ができさえすれば良いといった応急の状態です。
 文字は黒のインクにより手書きで書かれていましたが、もちろんイタズラ書きではなく、明らかにお店のメッセージとして表示されていました。言葉を失った果てにそれでも何とか言葉にして気持ちをあらわそうと思ったら、とてもシンプルなこんな言葉に行きついたということでしょうか。
 私が滞在したホテル観洋はその名の通り、志津川湾一帯の海を望むことのできる、迫り出す岸壁に建てられた、白壁がひときわ目立つ大きなホテルです。1〜2階部分は震災被害のため使用不可となっていましたが、3階以上は被災者の避難所となり、一般客も宿泊できるようになっています。節電のため電灯が控えめになっており、夜の館内はうす暗く、水もトイレも使用制限があります。風呂については大浴場は利用できますが、各部屋に備え付けられたユニットバスは利用できませんでした(7月はじめ現在)。
 ホテルの展望台のようなロビーから目の前に広がって見える、穏やかにしずまった海は、7月の強い陽光に照らされて青く美しく輝いています。町を飲み込み、住んでいる家を破壊し、身内や知人のいのちを奪った大津波をもたらした海は、この土地に生きる人々に太古から豊かな恵みをもたらし続けて来た、母なる存在でもあります。これからの町の復興も、この海を抜きにしてはあり得ないことでしょう。


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【活動報告:南三陸町】7月5日-7月8日 [参加者からの感想]


 他人ごとではなく、どこまで自分のこととして考えられるか。
 今まで自分が決して得意だったわけではないテーマが、今回の震災以後、大きく問われていました。
 治療家として。治療家以前の人間として。

 今回、南三陸で合流し、そこの一切を取り仕切っていらしたプロジェクト・スタッフの小河原先生と橘川さんは、被災当事者たちに対し「よりそって自分たちのこととして考える」ことを極めた精神で行動しているお二人でした。
 もちろん、まだお会いしていない発起人の三輪先生はじめ、これまでの4ヶ月間のスタッフの方々の行動力と献身的な精神も推して知るべし。
 私が最も尊敬するタイプの方々です。

 被災者たちがどれだけ大変かを知ろうとする想像力は、現地の治療家先生たちへの思いやりにも発展します。
 もともとあった治療院10軒ほど全てが流された町で、先生方を探し出し、ボランティアと一緒に治療してもらって、今後のための顔つなぎをする。
 それこそ、被災者でもある先生方のお仕事にとっても、住民方の健康にとっても、必要になってくる配慮だが、通例の単発的な支援では、できなかった発想です。
 ともすると「やってあげたんだからこのくらいでいいでしょう」と、やや上からの立場になりがちなところを、あくまで謙虚に、地元を荒らさないように、もう一度掘り起こし、できれば種が見つかれば蒔いて「差し上げる」という、治療家以前の、偽善にならない慈善事業の真髄を見させていただきました。
 作業の少しの合間を見つけては、地元の先生のチラシをつくりコピーし貼りに回る。
 ボランティアセンターのスタッフや行政職員さんなど各方面への申し送り・周知徹底。
 日替わりのように参加する、私のような短期のボランティアへの連絡・送り迎え・作業段取りや心構えの伝達などなど。
 それが東北の被災地域全域を対象としているのだから、まさに東奔西走です。

 もうひとつ画期的なことは、気仙沼ではプライマリケア連合学会の医師団の活動(PCAT)に加わったことです。
 我々の業種は、医師や看護師と比べて、ボランティアの期間は収入が途絶え、経費は持ち出しになることが圧倒的に多い。それは社会的に医療チームの一員とみなされるにはまだ不十分な面が多々あるからでしょうし、保険制度の問題でもあるでしょうが、今回、私は詳しい経緯は知りませんが、PCATからの要請で参加できたこの鍼灸マッサージプロジェクトは、「医療」として「必要」とされ「公認」されたということです。その分、カルテをつくり引き継ぎをし、経費を参加者に還元しようと、組織としての質の向上も図っている。すばらしい。

 私が今回ここに参加することになったのは、業種団体の垣根を越えて活動しているプロジェクトだったからです。
 私は日鍼会や全鍼師会などに属していないし、属している団体は支援の募集をなかなかしません。個人で勝手に行かないように聞いていたので、「何か手助けをしたい」、義援金以外に、自分の技量で、という思いは募る一方でした。しびれを切らして、こちらのHPの応募フォームで応募しました。私のようなひとりでやっている人間には、好都合でもあったのです。

 施術の現場のことを少し書きます。

 体育館に寝泊まりする人たち。お風呂も週2~3回入れればいい方。
 動かないまま生活不活発病になっている人たち。
 脚が硬くなってしまっても、運動の指導さえ受けていません。
 パニック障害になった人。痛いと言いながら部位が不明。
 明らかにマッサージと言う名の“手当て”を欲しています。

 ハエが身体に触れてくる。たえず一人に一匹くらい。手をすり足をすりしても、あんまりありがたくない“手当”。

 ご近所の人同士で悲劇の当日の話を世間話のようにしています。
 家族のような間柄だから、助け合って生きてこられたのでしょう。だからといって、思い出話として平然と話しているわけでは決してありません。
 こちら側もつられて詳しく話を聞いてはいけません。
 ここまでくるのにいくつの長いトンネルを抜けたのか。
 3ヶ月たってからこの1ヶ月で10㎏やせた、という80代のご老人がいらっしゃいました。内科に行って検査してきたばかりで、ストレスしか考えられないということです。
 3ヶ月間はやせる暇もなかったのでしょう。

 「ありがとう」と言うだけのために、どうしてそこまで土下座のように深く何回も何回も頭を畳にこすりつけてくれるのか。
 私にはもったいないですよ。私も何回も土下座をし返しましたが、回数でも深さでも負けました。

 スタッフが探し出した、地元の柔道整復師のA先生には、夕方から我々の活動場所に参加してもらっています。
 昼間は工場の一角につくった仮設の施術場所で、少しずつ仕事を始めているとのこと。
 とても笑顔のすてきな先生ですが、全身から悲しみが感じられて仕方ありません。
 詳しいことはもちろん聞けません。ただ、
 「海は見たくないですね」
 とおっしゃっていました。
 目の前は、ただただ胸のすくような綺麗な青い海なのに。
 「泥を全部陸地に押し上げちゃったからね。逆に海は澄んでるんだ」


 今回ほど、この職業でよかったと思ったことはありません。
 被災者に、直接手当ができ、その反応をその場で感じ取ることができるのです。
 いろんな支援のかたちがあり、支援ができる人とできない人がいるでしょう。 施術家なら誰しも、支援に行きたい気持ちが募っているでしょう。
 でも私はこうやって、やきもきした気持ちを直接行動にかえることができる環境がありました。

 そのやきもきした気持ちを晴らすために行くということは、一種の自己満足かもしれません。
 でも、自己満足でいいじゃありませんか、モチベーションとしては。
 被災者の方々に本当に役に立てたのかどうか、
 精一杯気持ちを込められたかどうか、
 自分が「納得」できる仕事ができたかどうか、
 現場に行けば、ありのままにわかるはず。
 一人ひとりの自己満足の集合体が、社会的な「納得」に変わるでしょう。

 たった四日間の滞在で、被災者の人々にとってはなんのことはないかもしれませんが、決してこれで終わることはありません。
 どこまで自分のこととして考えられるか、これからが勝負です。

 とはいえ、この期間、私が仕事を休んだがために治療を受けられなかった東京の患者さん方、ごめんなさい。

2011年 7月   高岡誠司  東京都大田区



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【PCAT活動報告:気仙沼】6月6~10日、20~24日 [参加者からの感想]

植松高俊

 今回、災害鍼灸マッサージプロジェクトの紹介で気仙沼の方で治療ボランティアをされているPCATの活動に6/6〜6/10及び6/20〜6/24と二度ほど参加させてもらいました、植松高俊という者です。

 まず、避難所での活動で感じた事は思っていた程、避難されている方々の目が死んでいないという事でした。東北人の気質と震災から3ヶ月くらい経つというのもあったのだと思います。
ただ、多くの方が困った目や困惑の気配を醸し出していたのは事実だと思います。長い避難所生活でプライバシーが無いのはもちろんですが、ある程度は改善されたとは言っても固い床での就寝や階段を使わなければ移動できない環境、坂道が多い土地柄と快適と言えない生活環境の上、復興の三ゲン則の内、権限(行政)と財源がまだまだ人間に追いついていないのが原因だと思いました。
いち治療家にすぎない自分には行政にも財源にも何の効果も発揮できませんが、腰や膝の痛み等に対して施術をおこなったり、話に耳を傾ける事でその人の痛みや苦しみをある程度は和らげる事は出来ますし、その後、廊下等ですれ違っても柔らかな眼差しで話しかけてくれたりと明らかに雰囲気が変わっているのにビックリしました。

 次に施術に関しては、災プロの最終目標が「地元への還元」という事と後続の先生方に繋げられるようにカルテに簡単でも施術内容と方法、理由を残すようにしていたのと、流派間の違いが出ないようにするために圧痛部や硬結部、緊張部といった局所的な阿是穴をメインに鍼灸治療をおこないました。
治療室内での施術では目隠しや仕切りがあったので通常通りに服を脱いで背中にも針は打てましたが、避難所巡回での施術ではプライバシーの事を考えるとそうとも言ってられないのでマッサージを主にし、鍼灸治療をおこなう際は腕や足の経穴を選択していました。
また、マッサージに関しても避難所の固い床でおこなう際には腹臥位による脊柱の過伸展による医療事故を避けるため側臥位での施術を心がけていました。
あと、避難所本部には清掃道具が宿舎には洗濯機と乾燥機があったため、治療室内の清掃及びその日使ったタオル類の洗濯といった衛生面に気を配る事ができたのは良かったと思います。

 今回、参加してみてこのような治療ボランティアに要望したい事がありました。
 まずは、2名以上のチームで派遣されるのが望ましいと思いました。
今回の派遣先は3カ所の避難所が隣接し、その3カ所を1人で切り盛りしなければなりませんでした。一応、希望のあった避難所には時間を区切って巡回しましたが3カ所を常に均等に巡回するというのは無理がありました。
また、鍼灸マッサージの施術希望はかなり多かったらしく、ボランティアセンター等に避難所本部から要請した治療ボランティアの方々が入っていました。こういった方々は避難者にも自分にも助かるのですが、どこから情報を得たのかボランティアセンター等を通さずに無許可で施術をおこなっていた輩がいたと目撃した避難者の方や実際に施術を受けて症状を悪化させた避難者の方から聞きました。
こういった事を防ぐためにも複数名の治療家が現地入りして施術にあたった方が良いと思いました。
 次に、できれば避難所に総合診療や全身診療のできる医師がいた方が良いと思いました。
今回、派遣された気仙沼は自分が行った頃にはかなり医療機関がそれなりに機能していましたが、巡回中に腱板断裂の疑いがあると以前派遣されてきた医師から診断された方や手根骨骨折の疑いがある方、湿疹が出ている方などがいて、医療機関への受診を促していました。
もし、気仙沼のように医療機関が機能していない被災地だったり、専門外の医師しかいなかったらと考えるとちょっと怖くなりました。
 あと、医療従事者や治療家達は同じ宿舎に寝泊まりした方が情報収集や情報共有がしやすいと思いました。

 自衛隊による災害復興やボランティアの規模は徐々に縮小されて地元の方々に委ねていくようになるでしょうが、政治力・財力・人力の全てがまだそのレベルまでいっていないと思いますので、せめて人力に対して回復するまでののつなぎ役として我々のような治療家達が出来る事を続けていくべきだと思いました。

--

*後方より
⇒「流派間の違いが出ないようにするために」につきましては、
カルテ記載時にできるだけ西洋医学的表記を用いてくだされば十分です。
治療法は、せっかく現地へ赴いてくださったのですから、ぜひ先生個々人による患者さんのための最良の手段で行ってくださればと思います。

また、人数につきまして、確かに2名以上のチームで行うことが望ましいのです。
しかしながら現在、災プロのボランティア希望者数が減少しており、徐々に継続的な派遣も難しくなっております。
ぜひご友人とお誘いあわせの上、ご参加いただければと思います。


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宮城県石巻市からの報告 [参加者からの感想]

5/1~5/4まで、災害鍼灸マッサージプロジェクトの現地ボランティアとして岩沼・名取で活動に参加された中野朋義さんが岩手県釜石市での活動(5/25,26)に引続き、今度は6/5、6の日程で個人的に石巻市に入られた様子を報告してくださいました。

災害鍼灸マッサージプロジェクトとしての派遣ではありませんが、貴重な現地での情報としてシェアさせていただくことをご了承いただいたので、紹介させていただきます。※ ファイルサイズが約2MBあります。


石巻活動記録.pdf
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